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鷺森別院の歴史

 鷺森別院の開創は、本願寺8世、蓮如上人の昔にさかのぼります。文明8年(1476)、上人が河内国出口(枚方市)におられた頃、紀伊国阿間郡冷水浦(海南市)に住む喜六大夫は、上人の弟子となって法名を了賢と名のり、村内の飯盛山に一宇の道場を建立しました。これが冷水道場(現在の了賢寺)で、鷺森別院の起源をなすものです。同年十月、了賢に下付した親鸞・蓮如の連座像(二尊像)は、蓮如上人による紀州開教の歴史的宝法物として今も別院に大切に保管されています。

 10年後の文明18年3月には、蓮如上人が紀伊に下向され、冷水浦に一泊。これを機会に冷水御坊を中心として本願寺の教勢は飛躍的に拡大。それにともなって御坊は三度位置を転じます。まず、永正4年(1507)、門徒参詣の利便をはかって冷水より黒江(海南市、現在の浄国寺)に移り、ついで天文19年(1550)には、和歌浦弥勒寺山(和歌山市)に移り、さらに永禄6年(1563)、雑賀荘宇治郷鷺森(和歌山市)に移りました。それが雑賀御坊、すなわち今の鷺森別院です。

 当時の紀伊国では、守護畠山氏の勢力が衰え、新興の土豪層が台頭。いくつかの地域勢力を形成し、その一つが雑賀衆でした。御坊の置かれた鷺森は、紀伊湊や市場にも近く、雑賀衆の拠点にほかなりません。こうして雑賀御坊は、国中第一の要所を占め、富裕な雑賀衆の熱心な護持崇敬を受けることになりました。やがて本願寺が、天下統一をめざす織田信長を相手に、自衛のための戦争に立上がると、雑賀衆は本願寺にとって最も力強い支えとなるのです。

 元亀元年(1570)以来、11年に及ぶ大坂戦争を戦いぬいた本願寺も、天正8年(1580)閏3月、ついに朝廷の和議斡旋を受けいれ、大坂を退去することになりました。同年4月9日、雑賀からの迎え船に乗った顕如上人一行は、祖師像を奉じて大坂本願寺を退去し、翌日、雑賀御坊に到着。それ以来、上人が貝塚に移る天正11年7月4日までの3年有余、ここが一宗の本山となりました。

 江戸中期には堂舎の荒廃が目立ち、広く門末によびかけて再建に着手。まづ享保8年(1723)3月、東西17間、南北16間の本堂が成り、ついで太子堂・対面所・主殿・書院・表門等、七堂伽藍が悉く完備したのは、明和5年(1768)のことでした。ところがこの立派な大伽藍も昭和20年(1945)7月9日に、米軍の空襲によって灰燼に帰したことは、誠に残念なことでありました。戦後の資材不足の中、昭和23年、門末の懇念を傾けて本堂が再建されましたが、40年の歳月に損傷はげしく、平成2年(1990)春、別院ゆかりの顕如上人四百回忌を厳修し、その記念事業として平成6年10月に完成したのが、現在の堂宇であります。

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