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紀州御旧跡紹介

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和 歌 浦



Picture 本願寺第三世覚如上人が和歌浦を訪れたことは、伝記絵である「慕帰絵詞」に描かれています。歌人であった上人が、和歌の神様である玉津島明神に参詣したのです。これは南北朝時代のことで、この頃真宗の教えが紀州まで広まって来ました。ただし、それは本願寺教団ではなく、仏光寺教団の教線だったのです。
〈住所〉和歌山市和歌浦

永 正 寺



Picture 文明18(1486)年、蓮如上人は紀州に来て、最初に立ち寄ったのが永穂の権守の所でした。彼が開いたお寺が永正寺です。
 永穂の権守は、泉州嘉祥寺にあった浄光寺の了真に導かれ真宗に帰依しました。このことは、蓮如上人の帖外の御文章でわかります。蓮如上人がこの日泊まった岩橋の湯橋家も浄光寺の信徒でした。蓮如上人が和泉や紀州を訪れた目的の一つが、浄光寺了真とその門弟たちに会うためだったと考えられます。
〈住所〉和歌山市永穂

紀三井寺(救世観音宗 本山)



Picture  紀三井寺は、宝亀元年(七七〇)に唐から来た為光上人が建立したといわれ、紀三井山金剛宝寺と号し、護国院がその正称で、西国三十三所観音霊場の第二番札所。本尊の十一面観音立像をはじめ藤原時代の仏像が五躰あり、いずれも国の重要文化財です。蓮如上人は岩橋から鳴神、田尻を通り、三葛の峠を越えて紀三井寺に参拝しています。
〈住所〉和歌山市紀三井寺

藤 白 峠



Picture 藤白峠は熊野に行く入口にあたり、熊野古道が通り、ふもとには五躰王子の一つである藤白神社があります。蓮如上人は紀三井寺に参拝した後、黒石浜(黒江)から舟で藤白に渡り、藤白峠に登っています。峠には「蓮如上人御休息所」の碑があり、ここから見る風景は見事です。
〈住所〉海南市藤白

了 賢 寺



Picture  藤白峠で日が傾いたので、蓮如上人は清水(冷水)の喜六大夫の所に宿泊しました。この喜六大夫が蓮如上人の弟子となって法名を了賢と名のり、二尊像を賜ったのです。紀州門徒は二尊像の下に結集することになり、清水道場から鷺森御坊へと発展します。永正四年(一五〇七)紀州門徒の拠点は清水から黒江に移り、清水道場は了賢にちなんで了賢寺となりました。
〈住所〉海南市冷水


 

浄 国 寺



Picture  紀州門徒の拠点が黒江に移ったのは、本願寺第九世実如上人の指示により、参詣の便を図ったためといわれています。天文十九年(一五五〇)、第十世証如上人が紀州を訪れ、黒江御坊に宿泊しました。寺の庭園は、証如上人が造らせたと伝えられています。この際、黒江より和歌浦の弥勒寺山の方が要害であるとし、御坊を移転させました。移転後、黒江御坊は淨國寺となりました。
〈住所 海南市黒江〉

顕如上人卓錫の碑(秋葉山公園)



Picture  弥勒寺山は御坊が置かれたので御坊山とも呼ばれています。永禄六年(一五六三)第十一世顕如上人が弥勒寺山を訪れ、御坊を紀伊湊に隣接した鷺森へ移しました。これは、大坂本願寺にとって後背地としての紀州の役割がますます重要になったからでしょう。天正五年(一五七七)織田信長が雑賀を攻めた際、雑賀一向一揆側はこの山に陣を敷き、和歌川をはさんで信長軍と戦いました。
〈住所 和歌山市秋葉町〉

上 人 窟



Picture  天正八年(一五八〇)、織田信長と本願寺との和睦で石山合戦は終結し、顕如上人は大坂から紀州鷺森へ退去しました。しかし、長男の教如上人はなお抗戦を主張します。けれども、信長方が追手を差し向けたので、教如上人も紀州に逃れました。この時、紀州門徒が雑賀崎の鷹ノ巣洞窟へ教如上人を避難させたといわれています。このため、上人窟と呼ばれています。
〈住所 和歌山市雑賀崎〉

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